5月のある日のこと、東京は朝からかなりの雨模様。普通なら外出を控えるところでしょうが、へそ曲がりが自慢の僕は、わざわざ傘をさして車庫まで5分間の道のりを歩いたのです。その目的は、当てもなくミニクーパーを走らせることでした。実は2月に岡山から走ってきて以来、高層オフィスビルの地下駐車場を拠点として晴天か曇天の日にしか車を出していなかったため、その車体にはうっすらと埃や花粉が積もり、白っぽくなってきていました。そろそろガソリンスタンドで洗車をとも考えたのですが、わざわざそんなことをするほどには汚れていないので迷っていたところです。ちょうどそんなある日の朝、目が覚めるとかなりの雨音が聞こえてき他のです。そのとたん、僕の頭に一つのグッドアイディアが浮かび上がってきました。そう、この激しい雨の中を走り回れば車体もきれいになる!
そんなわけで降りしきる雨の中を運転することになったのですが、目的が目的だけにどこをどう走ってよいのかまったく白紙の状態でした。なので、自動で開いた車庫のシャッターから飛び出したときには、明治通りを右に行くか左に行くか、あるいは首都高に乗るかなど、一瞬の迷いがあったくらいです。そのときどんよりと垂れ込めた雨雲に突き刺さるような東京タワーの赤い姿が遠くに見えました。そうだ、東京タワーが目に入ったなら反射的に「東京タワーだ!!」と叫んでしまうくらい、小学校2年生のときに初めて眺めて以来お気に入りの東京タワーの下まで行ってみよう! そう閃いた僕は、一路東京タワーを目指していつも首都高環状線に乗るときに通っていた赤羽橋交差点に向かいます。もちろん首都高には乗らないで、交差点を斜め前方に進んでいくとフロントガラス越しに東京タワーの美しいフォルムが現れました。
天気のよいときの映像しか出回ってはいないため、雨の日の水玉模様のフロントガラス越しの東京タワーの姿をご覧になった方は少ないと思いますが、なかなか風情のあるものです。よし、あの足下まで行くぞ! すぐそこに見えてはいるのですが、意外に道路が限定されていて結局周囲をぐるりと半周した形でしか東京タワーの真下には行けませんでした。しかも、唯一のアクセスとなっている道路が狭く、写真を撮るために路上に停車すると他の車に迷惑となってしまいます。思案しながらゆっくりと車を進めていたとき、前方に中型の黒塗りベンツが堂々と路上駐車しているのが目に入りました。咄嗟にナンバープレートを見ると「外」で始まる青色の地に白い文字で僕が岡山で乗ってきていた大型のベンツとまったく同じナンバー「***1」が描かれていたのです。その昔SF映画界に一石を投じることとなった有名なハリウッド映画のタイトルから拝借したあの4桁の数字と同じ登録ナンバー、しかも外交特権のプレートときては意味のある偶然の一致ということで、神様が御手配下さった好機だと理解した僕は、この外交特権のベンツの前にミニクーパーを路上駐車してしまいます。外交特権の車は日本の道路交通法に従わなくても違法ではありませんので、その車の前に小さなミニクーパーがコバンザメのようにくっついていても問題はないだろうと思ったからです。
その場所から運転席側の窓ガラス越しに見上げれば・・・、なんと東京タワーの雄大な姿が完璧なアングルで現れたのです! 対数曲線を彷彿させる赤い曲線が雨雲の中に吸い込まれている姿に、しばしの間見とれてしまいました。
雨の東京タワーもなかなかいいものだと思い、さらに雨脚が速くなったこともあって車体をきれいにするという本来の目的にはここでこのまま違法駐車しておくのが最適だと考えた僕は、外交特権のベンツが動き始めるまでその場にとどまって原稿書きをすることにしました。次作の本などの原稿は、ふと空いた時間や新幹線の中などでいつでもどこでも書き進めていけるように、携帯可能な小さな「文字入力専門」の「ポメラ」という電子文房具を用いて書くことにしています。このときももちろん持って出ていましたので、スイッチポンですぐに原稿入力ができる状態にしたポメラのキーボードを叩き始めたのです。
小一時間ほどで外交特権のベンツが動いてしまったため、原稿打ちはその時点で終了せざるを得ませんでしたが、それでも原稿用紙4枚分くらいの文章を綴ることができました。
さて、大雨のおかげでピカピカになったミニクーパーの車体の裏側まで完全に乾燥させるため、朝から青空が広がった翌日のお昼にもミニクーパーを一時間ほど走らせることにしました。燦々と降り注ぐ太陽の光を受けながら走り始めたとき、ふと、どうせなら前日の雨模様の中を走ったコースを再現してみようと思い立ちます。赤羽橋交差点を通り過ぎたところで、前日とは打って変わった真っ青な空に東京タワーの真っ赤な色が素晴らしいコントラストを見せてくれます。
よし、これなら真下から見上げる姿も素晴らしいに違いない! 意を決したかのような表情も写り込んだルームミラーで後方の安全を確認した僕は、前日の道を思い出しながら東京タワーの真下へと向かったのです。残念ながらこの日は外交特権のベンツがいなかったため、一瞬だけ前日と同じ場所にミニクーパーを停車させた僕は、窓を全開にして青空を背景にした東京タワーの真っ赤な対数曲線を映し込みました。
いやー、やはり東京タワーは美しい!
東京タワーがある港区は東京都の中で最も豊かな区だそうですが、その理由は東証一部上場企業の多くが港区内に本社住所があるため、法人税収が飛び抜けて多いからだそうです。そんなわけで港区、中でも白金や高輪というと超高級住宅街と見られています。僕も昨年4月に実際に住んでみるまでは「シロガネーゼ」というイタリア語表現がピッタリのお金持ちが住む街という印象のみでしたが、時々自分の部屋がある白金商店街の周囲を散歩がてらふらついてみると、エーッという光景に出くわすことが少なくはありません。
たとえば、古川橋の向こう側にある一帯は太平洋戦争末期の米軍による東京大空襲でも爆撃されなかったため、戦争前からの建物が現役で残っているところもあります。現行では港区三田の町名の場所なのですが、このトタン張りの古い家に掲げられているのは戦争前からの住所表示で「芝区豊岡町」となっていましたし、その表示板の下部には「味の素」の宣伝までもが印刷されていました。
まるでタイムトンネルを抜けたような感覚です。
そこまでは古くなくても、近くには戦後すぐに建てられたような住宅が密集した地区が幾つも残っていて、その向こうに建てられた高層マンションの姿とのコントラストが圧巻です。
地下鉄三田線と南北線が開通して白金高輪駅ができるまで、この白金から高輪にかけての「準工業地区」は金属ネジ加工の戦前からの古い町工場が建ち並んだ、居住には不便な場所で、「陸の孤島」と呼ばれていたそうです。
この「陸の孤島」にあった古い建物の多くは、1階部分がネジ切り旋盤1台が置かれた小さな町工場で、2階部分に工員や社長が寝泊まりする部屋があったそうです。その後町工場が閉鎖され、1階部分も住居となっていったようですが、中には1階部分は飲み屋になっていた味のある建物も残っています。
焼き鳥屋だったのか鮨屋だったのか定かではありませんが、今でも営業していたならフラッと暖簾をくぐってみたい味のある店ではなかったでしょうか?
ちなみに、このあたりが東京大空襲で爆撃されなかったというのは、そのおかげで創業80年以上の歴史を今に繋ぐ「飯屋」の「三河屋食堂」のお婆ちゃんから教わりました。僕が時々夕食を食べに行く昔風の「飯屋」で、出して下さるどの料理も本当に安くて美味いところです。このように、休みの日にシャッターをおろしていても「三河屋食堂」の暖簾は堂々と出されたままです。まるで、この地区の守り神のようではありませんか。
ちなみに、白金にはやはり創業80年以上の町工場が今でも何軒かは営業なさっていて、それらの町工場が作り上げた金属ネジを卸す会社も現役で残っています。そこで話をうかがってわかったのですが、白金の町工場の中にはアメリカ航空宇宙局(NASA)から特殊なネジの注文がくるところもあるそうです。
うーむ、恐るべし白金界隈!
NASAという言葉の響きに弱い保江邦夫